私の日々の生活をありのままに表現しています。感情のまま表現しているので、見苦しい点があるかと思いますが、ご了承ください。
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親は放任主義のところはありましたが、ごく普通の家庭で育ってきました。
でも、小さいときの病気の影響からかはよくわからないのですが、
基本的に感情を上手く出せるタイプではありませんでした。

私の家族が、異変に築いたのは症状が出て話をしてからなので
25歳以降の話になります。

それまでは内にこもっていました。
何かあっても親や姉に相談できませんでした。
言葉に出来なかったのです。

たまに言葉にしても
“いじめられるようなことをしているみよが悪い”といわれてきました。
どちらかと言うと、いじめるタイプだった母親からは
私の行動一つ一つ気に触っていたのかもしれません。

でも、それ以外は特に何も言われることはありませんでした。
特に聞いてくることもありませんでした。
私は自分の中で常に泣きながら過ごしていました。

大人になって、症状が出て初めていろいろと話をするようになりました。
それから親や姉に変化が見られました。
親とは離れているんで、電話を通してしか会話できないですが、
口調で私の体調を感じ、心配するようになりました。

私のように感情を上手く表現することが出来ないタイプもいます。
とっぴな行動をすることも無かったので
目立つことは一切ありませんでした。

でも、たぶん私なりに信号を発していたと思います。
何も普段と変わらない様子でも、
本人の中で抱えている物があるかもしれません。

それを少しでも吐き出してあげるように手助けをしてあげてください。
築いてあげるのが早いと普通に生活していけるようになります。
遅くても心を開くお手伝いをしてください。
その子が少しでも楽しい人生を送れるようになるために。


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生まれて数ヶ月で右脳に発作が出るひきつけが出た。
発作が出るたびに親はいろいろな病院を駆け巡った。
いろいろな療法とかも試した。

でも、なかなか納得の行くものに出会えなかった。
ある時一か八かで京都に出てある大学病院へ行った。
そしたら、何度か診察してもらってた地元の診療所の先生は
障害児を治療することを得意としているので大丈夫とのことだった。

それで、親はそこの診療所に駆け込んだ。
大学病院の御墨付きだからと…
でも、漢方等も挑戦してみたりしていた。

その先生が、障害児の為の療養も兼ねた病院を建てられた。
そのころからそこへ通うようになり、
私に会う薬を探しながら処方してもらうようになり落着いてきた。

それが2歳半ぐらいだったみたい。
そのころ祖父は病床にいた。
“みよの病気はわしが持って行ってやる”と言ってくれたみたい。
祖父の死後、私は明らかによくなっていった。

本当に祖父が持って行ってくれたようだ。
症状が出なくなったのは3歳頃だったようで
その頃から私の人生がスタートしたようだ。

3歳になり、それまで寝ていた生活から一変。
いろいろと環境の変化があったものの対応できないまま成長。
私が人と違うと築いたのは小学校2年ぐらいの時。

知らない人から言葉の暴力を浴びてきた。
当時の貴重な友人を奪われた。
その頃から孤独を味わうジンセイが始まった。

その頃からだから、足掛け25年いろんな環境でいじめられて来た。
(あっ、単純計算しただけで年が分かってしまう…)
その間に性格が歪んでしまった。

いつの頃からか胸のわだかまりをかんじるようになっていた。
こんな状態が続けばいつか破裂すると幼心に感じてた。
それは25歳の頃現実になった。

つもり積もった物が破裂した。
でも、まだ破裂し切れていない部分がある。
それは今でも感じさせられるところが数多くある。

どこが最終段階かは分からない。
けど、それが破裂しきったらたぶん本来の私が出てくるのだろう。

この身体になって、“以前と比べてどうですか?”とよく聞かれる。
私には元気で明るく楽しく過ごしていたという過去はない。
だから分からないので、心理テストとかでは内容により
一番しんどい時の自分とか今現在の自分の症状で答える。

想像もつかない私の本当の性格を見つけるために今日も生きている。

ふとしたときにいろんな感情が沸き起こる。
といっても、良いときはまずない。
ほとんどがオチるような内容だ。

今日も朝から圧迫感がすごく強くて2度寝した。
その時負の感情が降って沸いたかのように思い浮かんできた。

生きてることがしんどい。
生きてることが苦しい。
誰か私を…(あっ、自殺ほう助になる)
現実から離れたい・・・

しんどくて苦しんで寝てるところを見て助けてくれる人いるんかなぁ・・・
このまま意識失ってしまったら誰か築いてくれるんかなぁ…
でも、今は携帯も切ってるし、主人は出張中だし誰も傷かへんなぁ…
誰か家に来て出なくても異変に築くような人おらへんなぁ…

こんなことばかり。
もがき苦しみ、何とか起きれるようになった。
でも、圧迫感は容赦ない。

圧迫感との付き合いは長い。
でも、これだけ長いのは珍しい。
どうせ検査しても引っかからないのは分かってる。
私の心臓は強靭だ。

胃は弱くはなってるけど、普段の生活には何ら支障はない。
身体の不調が死に結びつくことはまずない。
なんでこんなこと考えてしまうんだろう。

そこのところはまったくと言って良いほど分からない。
辛くて苦しくても何とか生きていかなければならない。
寝込んでも生き抜かないとダメだ。

とても仕事に行ける状態ではないけど、
内職と@SOHOでいくつか仕事をするようになってる。
請けている以上は責任をもってしないといけない。

仕事も@SOHOに入ってきたらRSSで情報が入るようにしてるので
自分に出来そうなやつはすぐに応募する。
依頼が着たらほとんど断り無く請ける。

そうしてある種追い込んでいる部分もある。
私自身どのようにしたらいいのかさっぱりと分からない。
ただ、1日1日を何とか過ごしていくだけ。

いつまでこんなん続くんかなぁ・・・
楽しんで日々を過ごせる日がくるんかなぁ・・・
今日お昼前から姉たちと一緒に大手スーパーに行って来た。

姪のクラスでプリクラがブームになっているようで撮りたがってるので
苦手な姉に代わり私が付き合うことになった。

プリクラは私自身は1度だけしか経験はない。
姪は小さい時に1回大手スーパーで遊びがてらに付き合って
撮影した経験がある。

その時よりも数段進歩していて最初は戸惑ったけど、
2人で加工を時間内に楽しんで、失敗したりしたけど何とか出来上がって
姪は大喜びしてくれた。

その後、姉の家により姉が寝ている間、姪と甥と一緒に遊んだ。
といってももちろん私は動かない。
姪と甥を動かさすように遊ぶ技術は身についている。

今日はかくれんぼが主だった。
姉が起きて来てからはそれぞれがやりたいことをしだし、
姪は勉強、甥はマジックをしだした。

私と姉は笑いながら見守り、いろいろな話をしながら過ごした。
離婚のことは、両親と私たちとあって話をする日まで置いといくということ、
とりあえず私自身の収入がどうなるかの様子を見ていこうということを
中心に話した。

晩ご飯を用意してくれ、家に帰ってきてからPCを起動し、メールチェックしたら
ブログの仕事がもう一つ入ってきた。
それは記事を投稿し収入を得るもの。

ブログを共有するので、題材がきて投稿し確認できた時点で収入になるのだろう。
指定されたブログサイトのアカウントはもともともっていたけど、
新たにとってユーザーコードをメールした。

最初にブログで決まったところは収入にならないので辞めておこう。
記事投稿での収入ではなくTBやコメントを入れての収入だ。
もちろん記事もUPした上での話し。

それなら面倒なので、ブログの指定されたキーワードで原稿を書くのと
指定された内容のブログを投稿するのと、
あとは前からしているデータ収集でやっていこう。

内職とこの3つのSOHOをこなしたらそれなりに収入になると思う。

さぁ、今日はこれからちょっと遅めの晩ご飯でもとろっかなぁ…
主人が10日間の出張へ行った。

今日からは仕事をメインに動くことになる。
最初@SOHOに登録して応募したところから返事が来ることは無かった。

今でも会社組織からオファーがくることはほとんどない。
手元にあるのはSOHOのお仕事の手伝いといったものがメインだ。

それでもいい。
私の好きなことを仕事に出来ることには変わりはない。
この仕事に関しては主人には内緒にしている。

離婚を意識して、ネットで物件を探してみた。
私が住める範囲は限られている。
姉の家から徒歩5分以内だ。

それで調べても結構あった。
もちろん限定された予算の範囲内でだけど。

どうなるかは分からないけど10月ぐらいに話をするつもり。
私には求められても出来ない身体だということをはっきりという。
それでも良いといってくれれば、私のペースで生活させてもらう。

これ以上気を使っていくと身も心もボロボロになる。
今でも結構しんどいんだけど。
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